日本・中国の星辰信仰と天元・九十九由基
目次
- 目次
- はじめに(警告)
- 目的
- 中国における北辰・北斗信仰
- 日本における北辰・北斗信仰
- 盤星教の旗印と北斗曼荼羅の符号に見る天元と北辰信仰の関係
- 豊受大神と九十九由基
- 北極星の変遷に見る天元と九十九由基の関係
- 結語
- 参考文献
はじめに(警告)
本記事には呪術廻戦単行本15巻収録分までのネタバレを含みます。
本記事の宗教や歴史に関する記述の多くは、専門家の考証を経ておらず、素人がWebで片手間に調べた情報に基づいており、信頼性は高くありません。
あくまでも本記事の目的は、宗教的、歴史的なモチーフから呪術廻戦という作品を考察し、作品の鑑賞を楽しむことですので、厳密な考証に基づかない点についてはご容赦いただきたいと思います。
目的
呪術廻戦でしばしば言及される「天元」
九十九由基や加茂憲倫の言動から、物語の核心に大きく関わっていると思われるものの、本人は依然登場しておらず謎が深い。
だが、天元に関連する用語に「星」が着くことはなんらかのヒントになるのではないだろうか。
そこで日本、中国における「星」にまつわる信仰から、天元の性質や九十九由基との関係について考察することとした。
中国における北辰・北斗信仰
古来からある星についての信仰で代表的なのは、北極星や北斗七星にまつわる信仰である。
北極星は年周、日周においてほとんど不動と看做せることから、古来から天測の基準点として利用されていた。
古代中国において北極星は北辰と呼ばれ、紀元前、堯・舜の時代から信仰の対象とされていた。漢代において北辰は「天皇大帝」「太一」という至上神の象徴、北斗(七星)は「帝車」すなわち天帝の乗り物と見做され、儒教的帝王観と結びつきが見られた。
北辰は中国哲学における「太極」、すなわち原初唯一絶対の存在であり、万物の源の象徴とされた。
その後道教思想と習合し、唐代末には北斗七星に「輔星」「弼星」を併せた北斗九星を神として崇拝する信仰が興った。輔弼とは宰相や補佐官のことだが、輔星とは北斗七星の柄杓から2番目の星(ミザール)の伴星アルコルであると言われ、七星と比較すると暗い星(陰星)である。
(※秋月 観暎「太微信仰と功過格--道蔵本功過格をめぐる二・三の問題」文経論叢 8(3), 33-63, 1973-03 弘前大学)
日本における北辰・北斗信仰
日本においては飛鳥時代に暦や陰陽道、道教思想とともに星にまつわる信仰(星辰信仰)や占術が中国から伝来した。
当時北辰信仰が天皇崇拝に結びつき、「天皇」は北辰の神「天皇大帝」に由来するという説がある。神道においては「天の中心」の名を冠する「天之御中主神」が北極星や「天帝」の象徴と言われる。「造化三神」として「古事記」「日本書紀」に登場するものの、記載が乏しく、北辰信仰や道教の影響をうけて新しく付加された記述とも見られる。
奈良時代末期には北辰・北斗信仰は広く普及し、延暦天皇の代には政治的脅威と見做され北辰を祀ることが禁止された。しかしその後も普及し続け各地で北辰を祀る祭が開かれた。
密教における九曜と星祭
奈良時代末期から平安時代にかけ北辰信仰は仏教に組み込まれた。「妙見菩薩」が北極星と北斗七星の象徴とされ、それらにまつわる信仰は妙見信仰と呼ばれた。
平安時代、平将門が妙見菩薩に危難を救われたとの伝承があり、妙見信仰は将門の領地であった関東地方で広まりを見せた。平将門の後裔である千葉氏は妙見菩薩を氏神として千葉妙見宮(現在の千葉神社)に祀り、一族の結束を図った。
また、文徳天皇の代に中国から密教における天文道「宿曜道」が伝来した。密教では北斗のほか七曜(日月火水木金土)と計都、羅睺の二星を加えた九曜などの星宿崇拝が見られた。これが旧来の陰陽道における星辰信仰や暦道、占術と習合し、九曜祭など星祭の発展が見られた。密教の助けを経て星辰信仰は再興し、平安初期には朝廷の祭祀や政治に取り入れられるようになった。
平安時代中期には密教における修法の本尊に「星曼荼羅」が描かれた。これは妙見菩薩、あるいは釈迦金輪を中尊として周囲に北斗七星、九曜星、十二宮、十二支の聖人などを描いた曼荼羅で、星宿信仰の象徴である。
星曼荼羅の図法はさまざまだが、方形式のものの代表として「寛助様北斗曼荼羅」を挙げる。これは、北斗七星が中尊の下部に天空上の配列と同じように並び、その周囲に九曜、十二宮、星宿の二十八宿を配している。
(※Kyoto Ohto Antique Art Association |北斗曼荼羅図/松村月渓(呉春))
(※有賀匠「星曼荼羅と妙見菩薩の図像学的研究」密教文化 2000(204), 25-63, 2000 密教研究会)
盤星教の旗印と北斗曼荼羅の符号に見る天元と北辰信仰の関係
ところで、これは作中に登場する「盤星教」の旗印である。
(※呪術廻戦6巻p96より)
中央の大きな星のまわりに九つの星が配しており、下段にある連なる星は北斗七星(あるいは北斗九星)に見える。これは先に上げた方形の北斗曼荼羅の図法に似ている。盤星教は密教や星辰信仰に着想を得た教団なのだろうか。
(※呪術廻戦9巻70pより)
北極星が古来から天子や天帝、宇宙の中心、始源神の象徴として信仰されてきたことはすでに述べたとおりである。
「天元」という語がそれを含意するならば、北極星と何らかの関わりがあるのではないだろうか?
豊受大神と九十九由基
さらに、九十九由基についても考察する。
神話や伝承から九十九由基を考察する鍵となるのが「豊受大神」である。
「丹後国風土記」によれば、古代丹波国で天女八人が地上に降り水浴をしていた際、その一人衣裳を老夫婦が隠したため、七人は天に帰り一人だけが地に取り残された。その取り残された天女が豊受大神とされる。
天照大神が神饌(※神に献上する食事)を司る御食津神・穀物神として遣わした伝承(「止由気宮儀式帳」)でも知られ、伊勢神宮の外宮には豊受大神、内宮には天照大神が祀られている。
これに対し、吉野(1974)は豊受大神は北斗七星の象徴であり、かつて神道は北辰信仰と習合したとの仮説を唱える。伝承で天に帰った七天女は北斗七星の象徴であり、先述の仄暗い輔星が豊受大神が去った座を表すという。
漢代の北辰信仰で北辰(=北極星)は「太一」という至上神を、北斗(七星)は「帝車」すなわち天帝の乗り物を象徴すると述べた。地上から見ると北斗は北辰を中心とした宇宙を回転している様に見える。
吉野(1974)は、天照大神は北辰に象徴される唯一神「太一」、伊勢神宮の内宮はその宮居、外宮は北斗七星に象徴される「帝車」に対応し、「太一」の本性「太極」に悖り不動の天照大神のため、「帝車」たる豊受大神が車を動かし神饌を運び、援助するのだと解釈している。
伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)は、その年の新穀を天照大神に献上する宮中祭祀として知られる。その際の神饌は「由貴大御饌」と称され、神嘗祭の中核をなす。
九十九は密教の「九曜」あるいは道教の「北斗九星」、由基は神道で豊受大神が司る「由貴大御饌」に因んだ名ではないだろうか。だとすると、九十九由基の性質は北斗七星に因むものだと考えられる。
天元と九十九由基には何らかの深いかかわりがあることが作中で示唆されている。
北辰信仰において不動の北辰と、北辰のために駆ける北斗は相即不離の関係にある。
天元は北辰の性質に悖り不動だが、九十九由基は「帝車」たる北斗七星の性質に悖り、世界中を周っているのだとは考えられないだろうか?
(※呪術廻戦9巻p131より)
北極星の変遷に見る天元と九十九由基の関係
これまで北極星を不動点と述べてきたが、実際のところ、地球の歳差運動により北極が移動するため、北極星の役割を果たす恒星は数千年ごとに移り変わることが知られている。
現在の北極星はこぐま座α星(ポラリス)だが、紀元前1,100年頃はこぐま座β星(コカブ)が北極星に位置した。これは北斗七星を柄杓に見立てた際、桝の先に位置する星である。
現代において北斗七星は北極星(ポラリス)の周囲を回転する星々だが、紀元前にはそれ自体が北極星であったのだ。
これは五百年毎に星蔣体と同化して肉体を書き換える天元の性質を連想させる。天元とは特定の個人というより、継承されていく役割、あるいは術式をさすのかもしれない。
(※呪術廻戦8巻p94より)
中世において唱えられた伊勢神道においては、豊受大神を天之御中主神の同体とし、始源神であると唱えその至尊性を強調した。
これには批判も強いようだが、仮に作品に影響を与えたとすれば、天元と九十九由基は同等の存在と考えられる。
九十九由基は星蔣体あるいは、それ以上に天元に近い存在なのではないだろうか。
北斗九星と北極星をあわせると十星となり、「十全」となる。
九十九と天元の一を合わせると「百」となるが、二人で「完全」を意味するとすれば、その性質も相補的なのかもしれない。
(※呪術廻戦8巻p93より)
天元は「不死だが不老ではない」とすれば、九十九由基は「不老だが不死ではない」?
結語
本記事では日本、中国の星辰信仰や密教、神道から類推される、天元の性質や九十九由基との関係について考察した。
加茂憲倫の計画や九十九由基の狙いにも、天元が関わっていることが作中で示唆されている。今回の考察を踏まえ、それらについても考察を続けていきたい。
参考文献
芥見下々「呪術廻戦」1-14巻 集英社
井原木憲紹「日本における星神信仰の一考察―日蓮聖人御遺文に見える星神・北斗を中心にして」桂林学叢 (19), 125-139, 2005 法華宗宗務院
有賀匠「星曼荼羅と妙見菩薩の図像学的研究」密教文化 2000(204), 25-63, 2000 密教研究会
吉野 裕子「伊勢神宮考 : 日本に生きる中国の哲理」民族學研究 39(3), 209-232, 1974 日本文化人類学会
天之御中主神 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト (kokugakuin.ac.jp)
(6)北極星と北斗七星の密教化に関する研究 - badra20 ページ!
伏黒恵の術式と宿儺の狙い
目次
はじめに(警告)
本記事には呪術廻戦単行本15巻収録分までのネタバレを含みます。
本記事の宗教や歴史に関する記述の多くは、専門家の考証を経た文献を参照しておらず、素人がWebで片手間に調べた情報に基づいており、信頼性は高くありません。
あくまでも本記事の目的は、宗教的、歴史的なモチーフから呪術廻戦という作品を考察し、作品の鑑賞を楽しむことですので、厳密な考証に基づかない点についてはご容赦いただきたいと思います。
概要
本記事では伏黒恵の術式「十種影法術」と、恵を利用した宿儺の狙いについて主に考察し、それらから示唆される禪院家のルーツや宿儺の正体についても述べる。
十種影法術
「呪術廻戦」には神道や仏教の様々な用語やモチーフが登場するが、伏黒恵の術式、「十種影法術」にも由来が存在すると噂されている。
「十種神宝(とくさのかんだから)」またの名を「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」といい、「先代旧事本紀」という神典に登場する宝物である。
日本神話の神、天神御祖(あまつかみみおや ※天照大神と高木神を指す)が饒速日命(にぎはやひのみこと)に授けたとされ、以下の鏡2種、剣1種、玉4種、比礼3種(ひれ※女性が身に着けるストールのような布)で構成される。
- 沖津鏡(おきつかがみ)
- 辺津鏡(へつかがみ)
- 八握剣(やつかのつるぎ)
- 生玉(いくたま)
- 死返玉(まかるかへしのたま)
- 足玉(たるたま)
- 道返玉(ちかへしのたま)
- 蛇比礼(おろちのひれ)
- 蜂比礼(はちのひれ)
- 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
恵の式神にはそれぞれこの神宝を象徴する印がある。
玉犬(白)には「道返玉」の印 *2
玉犬(黒)には「足玉」の印 *3
蝦蟇には「沖津鏡」の印 *4
万象には「辺津鏡」の印 *5
摩虎羅には「八握剣」のモチーフが見られる*6
大蛇と鵺ははっきりとした印がわからないが、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)にそれぞれ対応すると推測する。
十種影法術: 「渾」の法則
ここで、単行本六巻に登場する十種影法術の解説を振り返りたい。能力の引継ぎ「渾」が可能な組み合わせには一定のルールが存在するとある。*7
玉犬(白)は道返玉、玉犬(黒)は足玉に対応しており、いずれも玉に属して対の関係にある。
渾の玉犬にはこの両方の印が刻まれている。*8
ここで摩虎羅の襟元をよく見ると鵺と大蛇に似たものが巻き付いている。
恵は「呪胎戴天」の宿儺戦で大蛇を、交流会での花御戦で鵺を失っており、これらが摩虎羅に継承されたと思われる。
出典は定かではないが、十種神宝と三種の神器が対応しており、各鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説があるらしい。
渾の法則はその説をベースにして、玉は玉同士、鏡は鏡同士、そして剣は比礼と混ざりあうのだと考えると辻褄があう。
この解説にはもう一つ重要なポイントがある。
式神の①は玉犬(白・黒)となっており、二つの玉が1セットにされている。
残りの十種神宝一つにつき一体の式神が対応するとすると、⑨までしか埋まらない。
実は、この十番目の式神こそが恵を利用した宿儺の狙いの核心ではないかと考えている。
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
十種神宝を祀る神社として、奈良県の石上神宮、島根県の物部神社が知られている。
このうち石上神宮の主祭神の一つに「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」があるが、これは十種神宝そのものに宿る霊魂を指すという。
「先代旧事本紀」によれば天神御祖が饒速日命に十種神宝を授ける際、「布瑠の言(ふるのこと)」と呼ばれる以下の祓詞を唱えて神宝をふれば、死者をも蘇生させることができると宣ったそうだ。
「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
この祓詞の一部は、恵が摩虎羅を召喚するシーンで登場している。*9
饒速日命の子、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)は父から十種神宝を受け継ぎ、その力で神武天皇と皇后の鎮魂を行ったとされる。
宿儺の狙い
これらの神話・伝承から、十種影法術の十番目の式神は布留御魂大神であり、神宝の式神すべてが渾して顕現するのだと推測する。
宿儺の狙いは、布留御魂大神を用いて死者復活の儀を行い、完全復活を遂げることにあるのではないかと考える。*10
二巻で恵に「宝の持ち腐れ」と投げかけるシーンがあったが、宿儺はこの時点で恵の術式の本懐に気づいており、文字通り「神宝」を「宝」と呼んだのかもしれない。*11
宿儺が恵に執心するのもこの後からである。
禪院家と日本神話、日本古代史
禪院家と神話、古代史との関わりについても考察する。
石上神宮は、先に挙げた饒速日命、宇摩志麻遅命の子孫である伊香色雄(いかがしこお)が、崇神天皇の代に布都御魂大神を十種神宝と共に、石上高庭の地に祀ったのを創祀とする。 伊香色雄は古代軍事氏族である物部氏の祖先にあたる。
十種影法術が禪院家の相伝術式であることを考えると、禅院家のルーツはこの物部氏にあると考えて良さそうだ。
物部氏は軍事、警察を司る氏族であったことから、各地に武器庫を所有していた。
石上神社もその役割を果たしており、多くの神宝が納められたと言われている。
禪院家は宝物庫に豊富な呪具を所有し、中には游雲をはじめとする特級呪具が存在するが、その中には物部氏の時代に所有していたものも含まれているのかもしれない。*12
「先代旧事本記」によれば、饒速日命は忍穂耳命(おしほみみ)の子で、天照大神の孫神である。饒速日命は天照の孫である証として十種神宝を授けられ、高天原から天磐船に乗って河内国の河上の地(大阪府)に降臨し、その後大倭国(奈良県)に移ったとされている。
饒速日命は大倭国で支配力を持つ豪族であった長髄彦(ながすねひこ)を帰順させ、その地を統治した。また長髄彦の妹と契り宇摩志麻治命を設けた。しかし饒速日命は宇摩志麻治命が生まれる前に亡くなってしまい、その後は宇摩志麻治命がその地を統治した。
その後大倭国は神武天皇の東征に見舞われる。長髄彦は神武天皇を拒絶し抵抗を続けたが、最終的には宇摩志麻治命が長髄彦を殺害し、神武天皇に帰順した。
一方、一般的に日本神話で天照大神の本孫として知られているのは「天逆鉾(あまさかのほこ)」の伝説で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である。
実は「先代旧事本記」の饒速日命についての記述には、「日本書紀」や「古事記」に存在しないものや、内容が食い違うものが存在する。
「先代旧事本記」によれば饒速日命は天照大神の本孫であり、天忍穗耳尊(あめのおしほみみの長男であり、瓊瓊杵尊の兄に当たる。
しかし、「古事記」「日本書紀」において天照大神の本孫とは瓊瓊杵尊を指す。日本書紀には神武東征に先立って饒速日命が天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国に降臨し、大倭国を統治していた記載があるが、饒速日命が天照大神の孫であったという記載はない。天照大神から葦原の中津国統治の命をうけ瓊瓊杵尊が高千穂峰に下った出来事が「天孫降臨」として記述されている。
瓊瓊杵尊が高千穂で用いた「天逆鉾」は「呪術廻戦」作中にも登場している。かつて甚爾が五条悟に致命傷を与えた武器がそれである。*13
饒速日命は物部氏の祖神にあたるが、一方瓊瓊杵尊は神武天皇の曽祖父である。
「先代旧事本記」の史料価値には議論があり、偽書とする説も根強い一方で、記紀とは由来が異なる物部氏の古い伝承を元に編纂されたと考える見方もあるようだ。
「先代旧事本記」によれば、天照大神の正統な血統であるにも関わらず、神武天皇の治世その配下に下った物部氏は、歴史の「影」に追いやられた存在だと解釈できなくもない。
史実考証はさておき、「呪術廻戦」の設定がこの「先代旧事本記」の伝承をもとにしていたとしてもおかしくはない。十種影法術の「影」はこれにちなむのかもしれない。
宿儺の正体
一般的には「日本書紀」に記述のある「両面宿儺」が宿儺のモデルと言われている。
日本書紀によれば「両面宿儺」が飛騨に現れたのは仁徳天皇の時代であり、西暦でいえば四世紀末から五世紀前半にあたる。
しかし、五条悟の言によれば、宿儺は千年以上前に実在した人間であり、呪術全盛の時代に跋扈したそうだ。*14
宿儺自身も千年前(十世紀後半~十一世紀前半と推定)に数々の猛者と対峙したことに触れている。*16
実は、作中の宿儺が活躍した時代と、「日本書紀」における「両面宿儺」の伝承には五百年の隔たりがある。
長命であったか、平安に降り立った際は呪霊化していた可能性も考えられるが、日本書紀の「両面宿儺」とは別人であった可能性も考慮すべきではないだろうか。
大和朝廷初期(三世紀~五世紀ごろ)「宿禰(スクネ)」という武人や行政官を表す称号が存在した。「宿儺」は「宿禰(スクネ)」の別表記として見られる。
宿禰を号する多くは物部氏の先祖であったと言われる。先に挙げた宇摩志麻遅命や伊香色雄もそれに含まれる。
七世紀後半、天武天皇によって「八色の姓(やくさのかばね)」という氏姓制度が制定される。その際定められた八つの姓のうち、上位三姓は上から順に「真人(まひと)」、「朝臣(あそみ・あそん)」、「宿禰(すくね)」であり、皇族と関係の深い臣下に与えられた。
作中の「宿儺」が平安時代の人物と考えると、宿禰姓にちなんでそう呼ばれた可能性がある。
また、十三巻に宿儺が炎の術式を用いるのを見て、漏瑚が驚くシーンがある。*17
炎の術式は「両面宿儺」の伝承にないものだったと考えられる。
また、宿儺の言動は自分自身を呪霊とは別の存在だと捉えているように聞こえる。
もし単なる人間や呪術師でなければ、神として位置づけられるような存在なのかもしれない。
宿儺の正体については、今後も考察を続けていきたい。
参考文献
週刊少年ジャンプ2021年8号 「呪術廻戦」第136話 集英社
十種神宝、石上坐布留御魂神社、物部 – 古代史俯瞰 by tokyoblog
http://kamnavi.jp/mn/togusa.htm
『先代旧事本紀』巻第三・天神本紀「饒速日尊(ニギハヤヒ)誕生から神去まで」<現代語訳・読み下し文・解説>まとめ | てんしょー寺blog
饒速日、宇摩志麻遅命、長髄彦 – 古代史俯瞰 by tokyoblog
*1:田脇日吉神社HP http://tawakihiyoshi.com/page3.html
*2:呪術廻戦1 p.156
*3:呪術廻戦1巻 p.177
*4:呪術廻戦1 p.185
*5:呪術廻戦6 p.14
*6:呪術廻戦14 p.36
*7:呪術廻戦6 p.88
*8:呪術廻戦6 p.81
*9:呪術廻戦14 p.35
*10:呪術廻戦13 p.130, 呪術廻戦14 p.43, p.46
*11:呪術廻戦2 p.38
*12:呪術廻戦6巻 p.69
*13:呪術廻戦9 p.25
*14:呪術廻戦1 p.91
*15:週刊少年ジャンプ2021年8号 「呪術廻戦」第136話 p.133
*16:呪術廻戦14 p.19
*17:呪術廻戦13 p.190-191